戒厳司令部に取り消された車智K警護室葬

◆戒厳司の影響で、突然取り消された“警護室葬”

 宮井洞(クンジョンドン)の晩餐場から、車智K(チャ・ジチョル)警護室長の遺体がソウル大病院の霊安室へ移されたのは27日午後3時頃。彼が金載圭から2発の銃撃を受け、眼を見開いたまま絶命してから、20時間経過した後の事だった。早朝、車室長死亡の知らせを聞いて、ソウル大霊安室に駆けつけ、彼の葬式を済ませた長年の側近であるH氏の証言。
――車室長と鄭仁炯(チョン・インヒョン)、安載松(アン・ジェソン)氏ら4名の警護官の遺体が一度に帰って来た。遺族や一部の青瓦台警護室職員が押しかけて来たが、彼らはみな不安に駆られて焦燥した様子だった。どうしたら良いのか判らないとも話していた。
 車室長には男の兄弟も息子もいなかったので、警護室の中では最も長い間、車室長に仕えた関係で、私が喪主の役割を務めた。室長がとても大切にしていた短めの皮革の指揮棒と毎日読んでいた聖書が遺影の前に置かれていた。菊の一束を持って、隣に捧げた。それが、その日から五日葬(※亡くなってから五日目に行なう葬儀)まで、病院の霊安室を見届けた全てだったのだが、誰一人として弔花すら送って来なかった。



現場に残された車智K警護室長の遺体写真。


 青瓦台警護室は当初、車室長と鄭仁炯、安載松、金容太(キム・ヨンテ)、金纖ラ(キム・ヨンソプ)ら4名の警護官達の葬儀を警護室葬として行ない、銅雀洞(トンジャクトン)の国立墓地に安置するものと決定していた。翌日の28日には中央日刊紙に、これを知らせる訃告が縦9cm横29cmの大きさで一斉に掲載された。朴正煕大統領の国葬訃告が掲載される三日前の事だった。
 当時の警護室高位関係者の、最近の証言。
――27日午後、李在田(イ・ジェジョン)警護室次長主宰で幹部会議が開かれた。車室長達の葬儀問題を合議するためだった。警護室次長である李在田中将を委員長に、金復東(キム・ボクトン)作戦次長補を副委員長とする葬儀委員会を発足させた。
 出棺場所をソウル大病院として、合同永訣式を30日午前11時国立墓地顕出塔前で行なう事とした。次の日、朝刊紙では一斉にこのような事実を告知する大判広告が掲載された。殉職死として処理したのだった。
 朝刊紙に広告が出た直後、戒厳司令部から警護室へ電話があった。李次長は即刻、戒厳司に呼び出された。
 鄭昇和(チョン・スンファ)司令官は、李次長に、公開的な警護室葬は取り消すように伝えた。訃告を読んだ国民による抗議電話が殺到したのだ。朴大統領を死なせてしまった連中をどうして国立墓地に埋葬するのかという不満の声だったのだという。
 李次長は、「たとえ彼らが、結果的に朴大統領を逝去に至らしめたのが事実だったとしても、任務遂行中の事故だった。中央情報部安家(アンガ)の性格上、不可抗力だった」と主張した。次長は、彼らの死亡が“任務遂行中の事故”である事を繰り返し強調した。しかし、鄭総長は、「私もそれは誰よりもよく知っている。しかし世論が良しとせず、静かに個別葬として行なうのが得策だった」と語った。
 車智K警護室長は結局、京畿道I金市(キョンギド・ミグムシ)にある永楽(ヨンナク)教会公園墓地に埋葬された。言うまでもなく、慎ましい家族葬となった。しかし、この過程においても、「車室長は礼遇されてはならない」という一般人の感情に、再び直面する事になる。
 H氏の証言。
――故郷においても祖先の墓が明らかでない車室長にとっては、事実上、国立墓地以外に入る墓がなかった。けれども、戒厳司から“絶対不可”という方針を受けてしまったのだから、当惑するより他ない。
 当時車室長には、智氏姓を持つ3人の姉がいた。車室長の母親が再婚した家の姉で、唯一身近に生活した親族でもあった。彼女達のうち、二、三番目の姉が、当時永楽教会に通っていて、敬虔な信者として勧士(※伝道を任務とする教職)を引き受けていた。
 二人の姉が当時教会にいたP牧師に、教会の公園墓地の使用を許諾してくれるように頼んだのだ。牧師は快く引き受けた。彼は、「その人が、どのような職務にあったかどうかは、主の御前では全く問題にならない」と言って、教会墓地の使用を許諾したのだった。
 永楽教会内部には、この問題に対して、かなりの議論が巻き起こった。反対する向きが強かったのだ。しかし、その当時、教会内で強大な地位にいたP牧師の“宗教的信念”は、結局、車室長を神の信徒として受け入れる事になった。
 だが、P牧師は、この件で反対勢力にいた一部の信徒達からは、少なからず排斥行為を受けた。

[宮井洞の銃声(鄭炳鎭・韓国日報/92年)]

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