WIN金桂元インタビュー第8回
宮井洞 唯一の 生存者 ・金桂元「私は 新軍部 執権野望 犠牲者第1号」
79年1月、年頭記者会見を行なう朴正熙大統領。
右に金桂元秘書室長、左には崔圭夏総理が座っている。


◆孤独で淋しい姿を見せていた大統領

――10.26以後、秘書室長の部屋にあった金庫を開けてみると現金が八億ウォン出てきたといいます。当時の政治資金は秘書室長が管理していたそうですが、事実ですか?
金桂元:違います。そんな金が金庫にあったなんて知りませんが、管理は私の補佐官がやっていました。大統領が金を持って来いと言えば、そいつが取り出して持って行ったりしていました。そんな訳で秘書室の生活費と大統領の金は区別されていました。私はその内訳までは知りません。

――金室長を秘書室長として任命した背景には、大統領が独りで淋しかったからだという話ですが本当ですか?
金桂元:そうです。私は台湾大使を7年やっていましたが、金載圭を通じて秘書室長をやってくれというお誘いを受けた。私は大使をもう少しやりたかったのですが大統領の指示だという事で拒むことができませんでした。大統領にお会いして、「私は政治も経済もよくわからないのでろくに補佐できません」と婉曲に断ったところ、「いいや、何もしなくていいんだ。ただ傍にいてくれるだけで十分だ」と言われました。

 陸英修女史が非業の死を遂げた後は、大統領の孤独で侘しそうな姿がよく見られたと金室長は語る。

金桂元:ある時はこんな事もありました。閣下が突然、「今日、釜山にでも行くか」とおっしゃいました。その日は志晩(※朴志晩、朴正熙の長男)の誕生日なのでお祝いパーティーを開いてあげたいとの事でした。陸英修(ユク・ヨンス)女史がお亡くなりになってから一度も誕生日を祝ってやれなかった事を気にかけていらっしゃったようです。それで陸軍士官学校にいた志晩(チマン)を陸士の校長の許可を得て呼び出しました。釜山のとあるホテルでした。夕食を共にしてから、ダンスホール(ナイトクラブのような所)へ行こうと誘われました。いつだったか前に亡くなられた大物歌手の金ジョングも、その時に熱唱していたのを覚えています。10分ぐらいしてから大統領が「我々はここで退散しよう」とおっしゃいました。子供達だけで過ごせるように配慮なさったのだと思う。そういう御姿は見るに忍びなかったのですが、陸女史がお亡くなりになってからはしょっちゅうあったのです。

――大統領に再婚を勧めたこともあるそうですね。
金桂元:そうです。ある時コーヒーを飲みながら閣下に本気で建議しました。「これからは家庭を持たなければなりません。良き御婦人を選りすぐって再婚なさった方が良い」とお話しました。陸女史が亡くなってから何年か経過しているので国民も理解するでしょうと言ったのです。

――大統領は、その時何とおっしゃったのですか?
金桂元:私に突然、「崔太敏(チォエ・テミン)を知っているか」と尋ねられました。金載圭から話は聞いていたので、「はい、知っています」と答えました。そしたら、「そいつの事なんだが、槿惠を誘惑していて気になっている」とおっしゃいました。慶尚道の方言で「化け物に憑りつかれる」という表現を使ったんじゃなかったかな。大統領は「彼女がそんな野郎に惚れ込んでいては、とても嫁に行けなどと言えない。それなのに何で俺が再婚なんかできるんだ」とおっしゃいました。

 崔太敏は、維新末期に牧師をしながら朴槿惠に接近した70代の老人だった。彼は朴槿惠(パク・クネ)に取り入って、その信任を利用し、様々な不正を行なって多くの関係者を悩ませた。
 陸英修女史の死後、事実上ファーストレディの役割を果たしていた大統領の娘が関係したスキャンダルであった為に隠蔽され、ベールに包まれた事件である。しかし朴槿惠が総裁となっていた救国奉仕団と関係のある不正は少なくなく、治安本部や民政首席室、中央情報部などが直接調査を行なって、大統領に不正事実の報告を行なうほどであった。しかし、朴槿惠が強く崔太敏を弁護して出るので、朴大統領が関係当事者達を全て呼び出して‘親鞫(※統治者による直接詰問)’をするハプニングを繰り広げる事もあったという。この事件で特に金載圭は、朴槿惠からの憎しみを買った。金桂元室長は、当時、朴大統領が金載圭を更迭しようとしたという一部の主張について、事実ではないと証言した。
 特にそのような情報源が朴槿惠の関係者から出てきたというなら信じられないと語った。誰よりも朴槿惠自身が金載圭を更迭するように大統領にせがんでいたというのだから。

――中央情報部長時代、記憶に残った事は?
金桂元:私は金炯旭の後を継いで中情部長に任命されました。私が望んだことではありませんでしたが、大統領に強く勧められてやむを得ず引き受けました。中情部長の一年は私にとって苦痛のような日々でした。権力の中枢であるせいか、ことごとく謀略と内紛がありました。金炯旭は8期生で私の後輩です。それなのに私が部長として就任すると、自分の手の内にある人間を全部引っ張っていっては朴大統領を訪ねて策略をめぐらせました。情報部にいたので、あらゆる権力に目が眩んだ連中が訪ねて来ました。権力と金脈を握りたい連中です。

――当時、政治的に最も難しかったのは大統領選挙ではないですか?
金桂元:そうです。私が中央情報部長だった71年に大統領選挙を行ないました。その時の目的は野党候補を柳珍山(ユ・ジンサン)にする事でした。それがダメなら次の案がYS(金泳三)でした。ところが中情の政治工作にも関わらず、DJ(金大中)が大統領候補になってしまいました。我々としては最悪の事態でした。そのために私は当時の共和党から激しい非難を受けました。情報部長が無能だからDJが候補になってしまったというのです。共和党内の四人衆の攻撃によって、結局、私は情報部長を辞めざるを得ませんでした。それから台湾大使になりました。

 金室長は情報部長の時代、四人衆の攻撃を牽制するために、当時外遊中だったJP(金鍾泌)を返り咲きさせた。そういった事から、JPとは身近に接していたという。

――JPとはどのような縁がありましたか?
金桂元:自由党時代、私が陸軍情報局だった時にJPが情報課長でした。2年くらい一緒に仕事をした経験があります。当時から彼は国際情勢と軍による革命に強い関心がありました。その当時はエジプトがナセルによる独立闘争を繰り広げていましたが、英国相手にエジプトがどうやって戦うのか関心を見せていたのを覚えています。随時私に報告をして、当時の参謀総長だった宋堯讃(ソン・ヨチャン)将軍にも報告していました。

金桂元:JPは政治的な関心が高かったですね。4.19前だったと思いますが、ある時は故郷である扶餘(プヨ)から国会議員選挙に出馬するという決意を表明して私に相談して来ました。私が、出馬には金がかかるのに準備してあるのかと尋ねたところ、ある程度は準備していると話していました。更に私が、選挙に落ちた時の事まで考えてあるのかと聞いたら、「それは考えていなかった」と答えました。私が「だったら賛成できないよ。もう一度考え直しなさい」と説得した事があります。

金桂元:その数日後、JPがまた私を訪ねて来ました。その問題を抱えて大邱にいた朴正熙将軍に会って相談したところ、私が言った事と全く同じ事を言われて出馬を断念したと言っていました。JPはそんな風に政治への関心が高かったのです。軍の改革にも熱意を持っていました。時には改革の必要性について声をあげる事もありました。彼は結局、8期生が中心となった15人の下克上事件を起こして軍を離れる事になりましたが。


◆これ以上他人に避けられたくはない

――今の心境は?
金桂元:今の私は年金すら受けられません。赦免復権したのに、申請期間が過ぎてしまったので受けられないと言うのです。規定がそうなっているようですが、理に適っていませんよ。転役後の一定期間内に年金申請をしなければならない規定があるが、私が獄中にいる間に過ぎてしまったというのです。そんな状況で年金の申請なんかできる訳ないでしょう。最近は息子から、ひと月に一回小遣いをもらって生活しているがIMFで皆が厳しい状況ではないですか。こんな時に年金でも受けられたら、と思う時はありますね。また、父親が故郷である慶尚北道豊基(キョウサンブット・プンギ)で教育事業を行なうので学校を一つ建てられた。私も関心があって、時々教育関連資料を集めてきた。ところが前科者であるため、私は学校を任される訳にはいきませんでした。そういう時は本当にこれでもかという悔しさがこみ上げてきます。

 金室長は、「既に私は『どうせ死ぬ奴』だと思われていて、今更私が何かを言っても誰が信用してくれるのかという思いがある。だから、私が話をする事で新たに他の人が被害を蒙る事だけは避けたい」とも語った。


◆私は全斗煥一味の犠牲第一号だった

――10.26についてどのように考えていますか?
金桂元:事態を収拾する過程で、事件をこんな風に過大解釈して政権を奪った新軍部の行為が、文民政府による歴史の立て直しでクーデターであった事が悉く表面化しただけに、10.26に対する再評価もまたなされなければならないと思います。政権をとるためにクーデターを起こした事が明るみに出た以上、その原因になった10.26もまた正しく評価されるべきであるという事です。“主犯・金載圭、共犯・金桂元、金載圭の部下を犯人とした政権略奪目的の内乱事件”ではなく、“金載圭の衝動的単純殺人事件”として正しく位置付けなければばらないと思います。

――何故、新軍部はこのように事件を過大解釈したのでしょう?
金桂元:政権奪取のための反逆事件があったという事にすれば、自分達のクーデターを正当化できるからでしょう。中央情報部長、秘書室長、陸軍参謀総長らが関与した事にしなければ、そのように見えないでしょう。私は全斗煥一味による野望の犠牲者第一号でした。

 鄭昇和総長を逮捕連行した許三守(ホ・サムス)は、12.12事件はクーデターではなく10.26事件の収拾だったと語った事がある。しかしその後、12.12は文民政権により“クーデター事件”として断罪され、首謀者である全斗煥と盧泰愚は軍事政変容疑で無期懲役の実刑判決を受けた。
 だとしたら、金載圭、金桂元らによる内乱容疑で大法院確定判決までに至った10.26事件を我々はどのように見なければならないのか。10.26事件について大法院全院合議部は多数決によって金載圭らの上告を棄却した。しかし、内6名の大法院判事は「10.26は内乱罪として成立しない単純殺人事件」として少数意見を最後まで固持した。少数意見を固持した梁炳皓(ヤン・ビョンホ)大法院判事は、「内乱目的の殺人事件とするなら、相当広い範囲の組織と謀議、多数による暴動及び、一定地域の平穏を脅かす計画などがなければならないのに、この事件は金載圭一人で、事前の謀議なしで彼の部下を指揮して行なった犯行であるが故に単純殺人事件に過ぎない」と指摘した。

[チョン・ジェリョン月刊WIN次長]

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