朴正熙 最期の一日/第1章 最期の時間
◆第5話:死神

 朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は挿橋川(サプキョチョン)防波堤の湛水碑除幕式を終えた後、周囲の平野に積み上げられた稲の束を見渡して、随行した関係者や記者たちに向かって、こう話した。
 「水田の場合、十字形に木を立てて、稲を束にしてその上に干すと、湿気が取れて稲穂が完全に乾くのです」
 待機していた空軍一号機に乗り込んだ大統領は、ヘリコプターが離陸態勢を整えるまでの間、遠くの野原をじっと眺めていた。機体が浮き上がる直前、彼は少し離れた所に集まっていた記者たちに手を振った。非公式行事が待っている唐津(タンジン)に向かって出発したのは、11時40分頃である。

 朴大統領が挿橋川行事が行われた場所を見下ろす頃、金聖鎭(キム・ソンジン)文教部長官は、二時間ばかり曲がりくねった道を走らせて、やっと目的地の唐津に到着した。
 金長官は一日前に道古(トゴ)ホテルにたどり着いていた。26日午前に、金長官は挿橋川行事に出席しないまま、車で、やや遅れて新設されたKBS(韓国国営放送局)放送中継所に向かって行った。以前であったら、先に開かれる行事に長官も参席して、大統領に仕えながら自分の所管の行事場に来なければならなかった。しかし、車智K(チャ・ジチョル)の警護室は大統領との過剰な接触を絶つために、この慣例を変えてしまい、主務長官は所管の行事場で待っていなければならなくなった。
 建坪500余りの二階建てビルにアンテナ二つがそびえる小振りな中継所は、かなり奥まった場所に存在した。ここは中央情報部が管轄していたので、朝、金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長が大統領専用機に同乗したい意向を示したのだった。
 金聖鎭長官が中継所に常駐する職員達と共に建物内を巡回している最中、晴れ渡った秋空からヘリコプターのプロペラ音が響き始めた。暫くして、粗い砂埃を撒き散らして、空軍1号機と2号機が中継所の庭に着陸した。2号機から降りて来た警護員達が配置につくと、1号機から朴正熙大統領が降りて来て、その後ろから車智K警護室長が従った。金長官は朴大統領と共に、行事場に向かい、竣工と開館を祝って、テープカットを行なった。それから、建物内の幾つかの施設を大統領に説明して回った後、準備されていた部屋に案内した。まだ、セメントの臭いも消えていない部屋の中に入って椅子にどっかりと腰を下ろした大統領を見た瞬間、金長官はハッと驚いてしまった。
 “大統領の鮮烈だった眼差しが無くなっている…。私を見る眼には生気が無く、うつろだ。おまけに顔には艶が無いし、大統領特有の緊張感までも無くなっている。まるで、死人のようだ…”
 暫く沈黙が流れた後、大統領が言った。
 「金長官、私に水を一杯くれ」
 声にも力が無かった。一時間もかからない短い行事を終えただけで、大統領がこのように疲労困憊している姿を見て、金長官は胸の詰まる思いがした。冷たい水を受け取った朴大統領は、ゴクゴクと一気に飲み干した。そして、がっくりと肩を落とし、椅子に斜めにもたれ掛かって、黙々と何か考え事に浸っているようだった。その時まで丸九年間、朴大統領に仕えてきた金聖鎭は、初めて見る光景に不安になった。
 “何処か御加減が悪いのだろうか。それとも、挿橋川の式典で、何か御気に召さない事でもあったのだろうか…”
 しかし、大統領にむやみに尋ねるわけにもいかなかった。暫くして、大統領は外に出て、予定通りに記念植樹をしてから、ヘリコプターに向かった。ヘリの乗組員に含まれていなかった金長官は、扉の所まで大統領を見送った。ヘリに乗り込んだ大統領は、長官に「何故、乗らないんだ」と尋ねた。行事の後、KBSの職員達や洞(町)内の有力者らと昼食を共にすることになっていた長官は、結局、大統領の要望で、ヘリに同乗することになった。
 砂埃を巻き上げて1号機が離陸した。それに続いて離陸し始めた2号機の方は、エンジン故障のため離陸を中断し、約30分もの間、KBS中継所の庭で緊急修理をしなければならない羽目になった。
 先に離陸した1号機は、先ほど行なわれた行事場の挿橋川方面に向かって飛行した。その間、朴正熙大統領は、一言も無く、何やら考え事をしているかのように、突然下を向いてはブツブツと独り言を呟き始めた。隣にいた金聖鎭長官が耳を傾けても、全く意味不明の言葉を呟いているのだった。そうかと思うと突然、長官の方を振り向いて何事かを尋ねたりした。
 「そうしたら、駄目だろうか?」
 「……?」
 言葉の意味が理解出来ない長官がためらっていると、大統領は何事も無かったかのように、また深い瞑想に耽るのだった。

 道古ホテルの敷地に空軍1号機が着陸したのは12時40分。騒音と共に粉塵が巻き起こった。庭の片隅にあった鹿の飼育場では、騒音に驚いた一頭の身篭った雌鹿が興奮し、壁に激突して死んだ。
 これらの相次ぐ不吉な出来事は、大統領には報告されなかった。
 道古ホテルの昼食会で大統領の席は孤島のように、一番端の場所に置かれていた。その左右には、長いテーブルが配置され、孫守u(ソン・スイク)忠清南道(チュンチョンナムド)知事ら17名が座った。
 以前の昼食会だったら、秘書官たちが工夫を凝らして、冗談有り笑い有りの愉快な雰囲気を醸し出していた。しかし、この日、金聖鎭の記憶に残ったのは「干からびてしまった枯葉のような存在だけが大統領を遠くから取り囲み、だらだらとした、実に侘しい雰囲気の昼食」という事だけだった。
 その時の話の中心は、やはり大統領だった。
 「金元基(キム・ウォンギ)長官が竣工式場に現れたのには、驚いたな」
 「ええ、唐津は私の故郷なんです」
 「ほう、そうかね」
 大統領は、軽く頷いて話を続けた。
 「李熺逸逸長官が青瓦台にいた時は米価の引き上げには反対だったのに、農水産部長官になったら秋穀米価を引き上げるのだから、皆立場が変わるとそういうもんかね」
 更に、朴正熙大統領は、7日前にあったシンガポール首相・リー・クァンユー(李光耀)との会談内容についても語った。
 「リー首相が言うには、共産党との闘いは、敵を殺すか、己が死ぬかのどちらか一つ。半端なやり方では駄目だという事だ」
[ 第6話へ続く ]
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