朴正熙 最期の一日/第1章 最期の時間
◆第10話:傲慢不遜

 大統領に側近として仕えていた軍出身の三人――金桂元(キム・ゲウォン)、金載圭(キム・ジェギュ)、車智K(チャ・ジチョル)は、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領と身長がほぼ同じ(164cm前後)だった。これから宮井洞(クンジョンドン)に集まろうとしている彼らは維新政権の核心であり、維新体制の政治組織である共和党と維政会、そして軍部は彼らによって牛耳られていた。彼らは朴正熙という恒星の最も近い所で周っている三惑星である。この三人の人間関係の真っ只中に放り込まれたのが、その日の朴正熙であった。権力の核心部の中にあって、その調整を保たなければならなかった人物は金桂元だったが、車智Kに嫌悪感を抱いているという点では、金載圭と完全に一致していた。
 金載圭中央情報部長にとって、金桂元秘書室長は、先輩として敬意を払いながらも、悩みを率直に打ち明けられる間柄だった。1960年、金桂元は鎭海(チネ)陸軍大学総長、金載圭は副総長として赴任しており、二人はその時、親交を深めた。当時、馬山(マサン)で会食を終えて戻る時、金載圭の乗ったジープが絶壁から転落した。たまたま後ろを走っていた金桂元が、その現場を目撃し、重傷を負った金載圭を背負って崖を登り、病院に搬送して命を救ったという事があった。金桂元は陸軍参謀総長を最後に退役し、中央情報部長を僅かに務めた後、長期に渡って駐台湾大使として過ごした。彼は、’78年12月の第10代国会議員選挙に、金載圭の力を借りて共和党の公認を受け、故郷の栄州(ヨンジュ)から出馬しようとしたが、上手い具合にいかなかった。金載圭は、そのような彼を、大統領に秘書室長として推薦したのだった。

 金桂元が、’79年11月10日に合同捜査本部で書いた第3次陳述書には、車智Kに対する感情がそのまま表れている。
――秘書室長として赴任した後、私は車智Kの事務室へ挨拶に行ったのに、向こうは答礼にも来なかったのです。一度も本人の事務室を訪れた事がありません。車室長は、閣下に報告するために本館にやって来て一階の控室で待っている間に、自分で二階に上がってくれば良いものを、私の方を呼び出して用件を済ませるのです。去る8月頃、日本の福田(※福田赳夫)前首相が訪韓したので、白斗鎭(ペク・トゥジン)国会議長、車智K警護室長と私が閣下にお仕えして、ニュー観丘(クァナク)ゴルフ場でゴルフをした後、シャワー室に入りました。白議長が一番先にシャワー室に入ったのですが、なかなか出て来ないので、車室長は扉を叩きながら、「早く出て来なさい。早く!何やってるんですか!」と言った上、「この年寄りが!何ぐずぐずやってるんだ。年取ったら早く死ね!」と言うのを聞いた事があります。年長者に対して無礼なだけでなく、閣下を警護するという立場を利用して、席や車の順序などで自分を優先させていました。閣下に仕えて政府総合庁舎に行く時、閣下、総理、関係長官がエレベーターに乗ると車室長は場所が狭いからと言い訳をして、本人には他のエレベーターに乗って来いと言う事がよくありました。車智Kは時々、閣下が出勤してくる前に執務室で既に待っており、最初に決裁を受けられるようにしていました。私が大分待たされてから決裁を受けることもありました。本人や長官が決裁を受けようと待っているのに、車室長が閣下の執務室の入口を警護員に指示して誰も通さないようにした後、自分がやって来て最初に決裁を受けられるようにしていたので、車室長が出てくるまで長官らが待たされることが頻繁にありました。車智Kは、警護室情報処を使って政治や時局についての情報を収集し、ある事態が起こると情報部長が報告に来る前に閣下に報告していて、情報部長に遅れを取らせるようなこともしていました。その上、車智Kは、年長者である本人にも、軍先輩や長官、国会議長に対しても敬称を付けて呼ぶことが無く、傲慢不遜そのものでした。閣下が訪問するホテルでも、ゴルフ場の社長らが閣下に挨拶できることを光栄に思って出てくるのに、車室長は、中に入っていろと制止するような真似をしました。彼は、また、業務と関係無い政治工作にも関与して、李世鎬(イ・セホ)陸軍参謀総長を週に1〜2回ほど自分の事務室に呼んだり、軍内の主要指揮官や将星を呼んで、金を与え、食事を一緒にしたりしていると聞きました。金致烈(キム・チヨル)法務長官が、軍人達と接触する車室長の行動を不満に話すのを聞いたこともあります。

 権威主義の政権の核心部では、常に最高権力者の感覚を先占しようとする闘争が熾烈に行なわれる。最初に情報を上げて、その権力者の先入観を奪うというやり方が、このパワーゲームのポイントだ。車智K警護室長は権力者の‘影’という立場を、こういったゲームに上手く利用していた為、常に秘書室長と情報部長は一歩遅れをとる事になった。韓国人は家父長的精神の下、序列を重視するように厳しくしつけられていた。特に、軍人社会では、この序列意識が並外れて強く、敏感でもあった。それにも関わらず、陸軍尉官上がりの車智Kは、同じ陸軍で将官出身である上、年齢も遥かに上回っていた金桂元と金載圭に対して、あたかも下級者であるかのように振舞っていた。元来の正義感に加えて怒りっぽい性格でもあった金載圭が口癖のように言っていた、「あのガキを片付けます」という台詞は、彼自身の心中で積もり積もった憎悪心の上昇を意味していた。
 金載圭は、車智Kから受ける侮辱と、彼の越権行為に対して大統領と談判したり、情報部の強大な情報収集力を使って牽制するといった対応を全く出来なかった。それほどの論理と度胸を持たない代わりに、鬱憤だけが静かに、胸の内に降り積もっていったのだ。朴正熙は、同郷、陸軍士官学校同期で、自分の庇護の下で大きくなった金載圭を甘く見ていたのか、いろいろな人の前で金載圭の無能を叱責したりした。これを見た大統領側近らは、金載圭よりも車智Kの側に傾いていった。

 何故、朴正熙が車智Kの越権行為と傲慢な言動を放置するどころか、煽るような真似をしたのだろうか。多くの人々は陸英修(ユク・ヨンス)女史が亡くなったのち起こった、彼の人格的変貌に答えを見つけようとする。権力を管理する姿勢が昔と違い、人間的で、鈍くなってしまったというのだ。時には精神的な安息の場であり、時には牽制装置でもある妻という存在を失ったことで、朴正熙は虚無的、感傷的に変貌し、権力の中枢が体験しなければならない孤独に加えて、‘やもめ’としての孤独にまで耐えねばならなかった。彼は人情と非情を調和させて、上手い具合に権力を管理してきた人間だったが、晩年には次第に緊張感を失っていった。秘書室長のポストについて提案を受けた時、金桂元が固辞するや、朴正熙は、「秘書室長の仕事なんかしなくても、わしの話相手だけすればいい」と言った程であった。
 車智Kの傲慢勝手さ、金桂元の調整力不足に加えて、金載圭は肝臓疾患で病人同然だった。金載圭は午後には宮井洞で数時間ほど睡眠を取らなければ健康を維持出来ないほどであった。病状がひどい時は李東馥(イ・ドンボク)を特補に任命し、自分が読んで決裁をしなければならない業務を代行させていた。1979年、金泳三(キム・ヨンサム)が新民党総裁に復帰する過程で起こった民主化勢力の政治的挑戦は情報部長の業務を過重にしたが、金載圭は、こういった乱世を切り抜けていけるだけの知力と体力を持ち合わせていなかったのだ。
[ 第11話へ続く ]
[ TOPへ戻る ]