朴正熙 最期の一日/第1章 最期の時間 |
◆第12話:二人の女 大統領は、テーブルの向かい側に座っている金載圭部長に尋ねた。 「釜山(プサン)、馬山(マサン)の様子に変わりはないか」 「はい、以前として変わりはありません」 シーヴァス・リーガルを氷の入ったグラスに注いでいた金部長が返答した。 「釜山事態は新民党が介入して起こった事なのに、皆がやたらと騒いでいる。新民党の議員が私のところにやって来て言った事なんだ。今日、挿橋川に行ってみたが、国民の大多数は皆、熱心に働いている。釜山のデモにしたって、食堂の従業員とかチンピラ風情が多いのではないか?連中がそんな選別受理とかいう話を解っているのかね。中央情報部の苦労が多いのはよくわかってるが、もっと正確な情報を集めなければダメではないか」 「はい、心得ております…」 そう答えた金部長の表情は浮かなかった。この日、朴大統領は、釜山事態は金泳三率いる新民党の策略で起こった事件だという先入観で金載圭と情報部を叱責した。この事が、金載圭の鬱屈と憤怒を凝縮させていた。金桂元が軍検察で陳述した内容は、この時の事情をよく物語っている。 ――去る10月16日、釜山で発生した騒動に関して、車智Kは閣下に新民党が背後で操った暴動であると報告して先入観を植え付けました。中央情報部は調査の結果、新民党ではなく、南朝鮮民族解放戦線などの不穏な勢力と一部の反政府学生らが加担したものだと報告したが閣下から否定されてしまい、逆に叱責を受ける羽目になってしまったのです。金載圭はその原因が車智Kの策略にあるものと勘付き、怒りが頂点に達したのでしょう。 金載圭は以前にも、幾度となく金桂元相手にこんな風にさらけ出していた。 「閣下が私に何か命令するのはいいが、そこで何であいつがしゃしゃり出て来て何だかんだと言って来るんだ!あのガキ…」 大統領は金載圭部長に今一度素っ気無く尋ねた。 「新民党工作はどうなっている」 「…全て失敗に終わりました。党の役員で辞表を提出しようとした連中も皆強硬派に寝返りました。どうしても当分の間は、鄭雲甲代行体制を発足させるのは難しいようです」 この時、車智K室長が口を挿んだ。 「そんな連中、調子こきやがったら新民党だろうが学生だろうが戦車でサッと轢き殺してやりますよ!」 金載圭は、“この野郎、またこういう席で…。いつもそうだ”と思っていた。大統領が不服そうに話を続けた。 「たとえ一括返還する事があっても、その時までは何も言うな。こいつらはすぐに騒ぎ立てるんだ。全くイライラする!」 車智Kがその言葉を受けて、「閣下、全くその通りです」と追随した。大統領は、「国会議長は何を間違って…」と呟いていた。 車室長は二人の女性を迎えるため、部屋の中外を行ったり来たりしていた。 申才順(シン・ジェスン)と沈守峰(シム・スボン)が宮井洞の奥の間の隣りにある待機室に到着したのは午後6時15分頃。儀典課長・朴善浩(パク・ソノ)がやって来ると誓約書が出されていた。今晩見聞きした事を外で口外した場合は処罰を受けるという定番の内容が印刷された文書にサインだけすれば良いのである。続いて鄭仁炯と安載松の二人が幾つかの質問を行い、車室長がやって来ると、また幾つかの質問がなされた。それから朴善浩が申才順に、“独自で閣下にお仕えする方法”を教授した。申嬢は昨日とは打って変わったような朴課長を見て寒気を憶えた。顔には冷気が漂っていた。 沈守峰は待機室で待ちながら安載松副処長と挨拶を交わした。射撃が趣味だった沈嬢は泰陵(テルン)射撃場で安載松に会っていたのだった。 6時30分頃、車室長が奥の間から出て来て南孝周事務官に、「今、女性客が二人来ているので玄関前に待機させて、俺が合図したら入って来させるようにしろ」と伝えると再び戻って行った。食堂管理人兼、奥の間専用のウェイター・南孝周は朴善浩を捜して警護官待機室に行ってみた。朴善浩が鄭仁炯、安載松、そして二人の女性と一緒に座っていた。車室長からの伝達を聞くと、女性達を出て行かせた。南事務官が彼女達を奥の間の入口付近にある付属室へと案内し、待たせるようにした。 暫くして、警護室長が奥の間から出て来て二人の女を連れて入って行った。彼女達は靴を履き替えて、ハンドバッグとギターを待機室に置いたままそっと入って行った。沈守峰は待機室で、情報部長と警護室長が声高く言い争っているのを聞いて緊張していた。最初に入った申才順の目に入った部屋は約6坪のオンドル部屋だった。 中央に長方形のテーブルがあり、後ろには十長生が描かれた屏風が広がっていた。その横には小さな陳列棚。 四人の男達は二人が入って来てもまるで気が付かないかのように話を続けていた。沈守峰は大統領の左側、申才順は右側に座った。 申才順は金載圭の丁度対面に座っていたため、この日の最も正確な目撃者となった。申嬢は四人の話がかなり深刻に進んでいくので、緊張を和らげるために食卓の上にある肴を数えてみたりした。 蜂蜜漬けの人参、桔梗ナムル、油炒め、生野菜、焼いた松茸、牛肉のスライス、シーヴァス・リーガル2本、煙草2箱。宴の席は思ったより質素だった。 大統領はまず沈守峰を見て一言話した。 「こちらのお嬢さんはテレビで何度も見ている顔だが…」 申才順を見つめながら、「こちらのお嬢さんは初めてだな」と言い、「可愛いね。名前は何というの?歳は幾つかな」と尋ねた。 緊張した申嬢は縮こまった声で答えた。大統領は沈嬢の方に、「本貫は何処だね」と尋ねた。青松沈(チョンソンシム)氏であるが故郷は忠清道(チュンチョンド)だと言うと、大統領は、「忠清道の人間か」と笑い、「亡くなった総務処長官と同じだな」と話した。【訳注3】 沈宜煥(シム・ウィファン)長官を指して言った言葉だった。前日に大統領は沈長官の夫人宛てに御悔みの手紙を書いて執務室の金庫にしまっておいたのだった。10.26事件後、大統領の執務室を整理した時に発見されたこの書信に、朴正熙は次のように書いている。 ――人生とは元来無情なもので、“会者定離”だと言う。誰もが一度生まれ出でて一度逝く事は定められた道理であると解っていてもあまりにも突然に逝かれたので哀惜の念を禁じ得ない…。故人が私に最期に残して行かれた手紙の内容を読みながら、御自身もこの手紙が大統領に送る最期の書信だという事を霊感で感じながら書いたのだろうという痕跡が一節一節に滲み出ているのを見ると、読んでいて断腸の思いが致します。 |
[ 第12話へ続く ]
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