朴正熙 最期の一日/第1章 最期の時間
◆第13話:中座

 女性二人の登場で酒席の雰囲気が多少穏やかになった。大統領は急ピッチで杯を空けた。シーヴァス・リーガルをやかんに注いで飲んでいた。酒瓶は主に大統領と金桂元(キム・ゲウォン)秘書室長の間を往復していた。車智K(チャ・ジチョル)警護室長と金載圭(キム・ジェギュ)情報部長は杯に口を付けて飲む素振りだけをしていた。金載圭は煙草すら吸わなかった。
 申才順(シン・ジェスン)が見た時、金載圭は向かい側でうつむいていたが、車室長がまたもや一言吹っかけていた。
 「この頃の情報部は何をやっているかわからん。釜山(プサン)事態にしたってそうだ」
 大統領は再び時局問題を取り上げた。車室長が挑発的な物言いで大統領を唆すので、この話題から逃れられない状況だった。
 「今日、挿橋川(サプキョチョン)に行ってみたら公害も無く空気も良かったのに新民党は何でそうなんだ!」
 「…新民党は主流派が中心になって強硬姿勢に回りました。非主流派が鄭雲甲(チョン・ウンガプ)を押していますが、国民からは反逆者扱いを受けているので力がありません。主流派の協力が得られない鄭代行体制の発足は不可能です。我々が工作した現職者の白紙化も水の泡に帰しました」
 「そんなガキ共…、サッサと轢き殺してしまいましょう!」
 車智K室長は例によっての強硬姿勢で、金載圭部長は対策の無い悲観論を繰り返すばかりなので大統領も困惑した表情だった。

 一方、鄭昇和(チョン・スンファ)陸軍参謀総長は午後5時30分頃に総長室から出て漢南洞(ハンナムドン)の公館に行って私服に着替えていた。午後6時10分頃には公館を出発。専属副官・李在千(イ・ジェチョン)少領(※少佐)が車の助手席に座った。6時35分頃に宮井洞(クンジョンドン)の情報部事務室に到着する。正門の守衛所から警備員が外を確認して門を開け、何者かが出て来て案内をしてくれた。案内人に従って入って行くと、後から到着した車から降りて来た一人の中年男性が付いて来た。私服姿の専属副官・李在千がその男に、「我が参謀総長です」と紹介してくれた。男は門の前で、「第二次長補です」と挨拶すると、鄭総長を案内しながら一階の待機室に同行し、腰掛けた。
 この時、情報部長随行秘書官・朴興柱(パク・フンジュ)大領が来て次長補に耳打ちした。
 「部長は閣下との晩餐に出席されているので御二方で先に御食事をして下さい」
 金正燮(キム・ジョンソプ)次長補は鄭昇和総長に了解を求めた。
 「部長は大統領閣下から夕食のお誘いを受けているので私が代わりに参りました。部長はお詫びすると共に、私が総長殿にお仕えしている間に、終わり次第駆けつけるとおっしゃっていました」
 鄭昇和総長は不愉快になって帰ろうとしたが、以前にも似たような事があったのを思い出した。春のことだったが、金載圭が3軍参謀総長達を、ある飲食店に夕食に招待しておきながら、突然大統領の呼び出しを受けて結局参加しなかったのだ。この時も金學浩(キム・ハコ)情報部監察室長が代わりにやって来て接待をし、金載圭は後から合流したのだった。

 再びナ棟の奥の間――。金桂元は、左側の席に座っている金載圭部長がひどく追い詰められるのを見ているのが辛かった。場の雰囲気を変えようと、こんな事を言ってみた。
 「金部長はカクテルもいけるんですよ。金部長、カクテルはどうやって作ったらいいのかな?」
 「酒1杯に対して水2杯を注げばいいんですよ…」
 無愛想に答える金部長に慰めの意味で酒を勧めると、少しだけ飲むにしては大きい杯にウィスキーをストレートのまま注いで返してしまうのだった。

 金載圭が暗殺準備の為に晩餐場を後にした時刻は、現在の捜査発表においては夜7時を回ったところである。今回、記者(※趙甲濟)が関連資料を綿密に調査し直した結果、6時40分頃である事が確認できた。金載圭が二度目の席を離れてかなり長い時間戻って来なかったので(おそらく10分〜15分位)金桂元秘書室長は不安になった。彼は、「閣下にお仕えしている行事なのに、晩餐場の主が席を空けてしまう事は失礼で申し訳なかったし、それまでに政治問題で話が進展して辛い立場に置かれていたので、もしや、と思い不安になった」(合同捜査本部での陳述書)
 その間、金載圭は人目をはばかりながら奥の間を出て庭を通り抜け、脇門を通じて50m離れた本館へ向かった。食堂としても使われる一階会議室の扉を開けると、鄭昇和総長と金正燮第2次長補が談笑していた。普段着姿の金載圭は少しオーバーな口調で話した。
 「鄭総長、本当に申し訳ありません。戒厳事態下で情報部が色々判断した資料を持ってきて少し話を交わしたかったのですが、大統領閣下から突然のお誘いを受けた為に来れなくなってしまって…。すぐに終わりますから彼と話でもして待っていて下さい」
 金載圭は乾いた笑い声を上げてこう付け加えた。
 「彼は…、国内担当次長補は、国内事情を私なんかよりよく知っていますから。私も早く切り上げて参りますので。一緒に御食事をしてお待ち下さい。金泳三(キム・ヨンサム)にしたって、私の方が全部折れてやったのに私の言う事を受け入れないからこの有り様ですよ…」

 鄭総長と金正燮次長補に仕える役割を担っていた尹炳書(ユン・ビョンソ)秘書は、金載圭が二人と約5〜10分位話してから出て行った事を記憶している。金載圭は会議室を出て二階に上がって行った。トイレで用を足しながら彼はとんでもない考えを始めていた。
 “車智Kを殺ってしまうか…。だが奴一人を殺しても根本的な問題解決にはならない。だったら閣下を排除する…。事を起こすしかない”
 金載圭が犯行から二日後に作成した自筆陳述書の題目は当時の殺意の発展経路を正直に告白している。犯行直後に書いたという点でも、それから後に余裕ができて自身の行動を誇張、美化、合理化できる前の、比較的純粋な状況下で作成された点においてもそう考えられる。この陳述書の通り、彼の殺意を突発させたのは、その晩の車智K室長の傲慢勝手な言動だった。大統領と夕食を共にする予定を知っても陸軍参謀総長を別室に招待する時から金載圭の殺意の火種は燻っていたが、確かな意思とは言えなかった。この日、大統領と警護室長が異なる態度を見せていたら金載圭の考えも変わっていただろう。ところが、この日の状況は、二人がかりで金載圭部長を一方的に責め立てていたのだ。これで決定的に激昂してしまった金載圭は問題の車智Kを殺そうとするのだが、それには大統領が障害物だったのである。
 “しかも大統領はあの傲慢勝手な車智Kを偏愛しているし、今日だって徒党を組んで自分を追い詰めているじゃないか”という思い。今や大統領に対する尊敬は憎悪に変わろうとしていた。
[ 第14話へ続く ]
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