朴正熙 最期の一日/第1章 最期の時間 |
◆第18話:金載圭の民主主義 情報部長随行秘書官・朴興柱大領は、夕刻7時20分頃に宮井洞情報部施設本館を出て情報部長運転手であるユ・ソンムンに車に戻るように指示した後、垣根の中のナ棟方面に向かった。大統領に仕えた隠密の晩餐が開かれているこの建物には彼も入った事がなかった。ナ棟の開いている側門に行くと、見知らぬ警備員から制止を受けた。 「秘書官どのはナ棟には入れません」 「ちょっと朴課長を呼んでくれ」 警備員は無線機で連絡を取った。儀典課長・朴善浩(当時45歳)が出て来て、付いて来るようにと言った。ナ棟の庭園は暗く、地面には小さな砂利が敷き詰められてデコボコしていた。 「私は何処へ行けば良いのですか?」 「あっちだ」 朴善浩は厨房の方を指し示した。そこに行くと、ジェミニが1台置いてあった。攻撃目標である厨房の方を見ると、3〜4人が行き来している様子が見られたが、暗くて誰が誰だか見分ける事まではできなかった。ジェミニの中には運転手・柳成玉だけが乗っていた。朴興柱は助手席に座った。彼は朴善浩課長が管轄する警備員達の顔や名前は知らなかった。言葉も交わさずに車中で待機していると、すぐにもう1人がやって来て後部座席に乗り込んだ。警備責任者である海兵隊下士官出身の李基柱だった。 朴興柱は、厨房の方を指して尋ねた。 「あそこには何人ぐらいいるんだ?」 李基柱が答えた。 「警護員が3〜4人はいます」 朴興柱大領は、厨房を行き来する人間を指して再度尋ねた。 「彼らは誰なんだ?」 「そうですね……、食事を運ぶ人達ではないかと」 朴興柱大領は興奮のあまり、何分ぐらい待機していたのかも覚えていなかった。 金載圭が2人の朴氏に暗殺指令を下した後、ナ棟晩餐会場に戻る時、「自由民主主義のため」と呟いたのは意味深な事だ。金載圭が朴正煕暗殺の理由として民主主義回復を挙げたのは、彼が自身の行動を合理化するために事件後に考えたのだという見方が多い。だとすれば、金載圭が事を起こす前に、「自由民主主義のため」と発言した事はどのように解釈すれば良いのか。これは少なくとも、彼の脳裏には既に自由民主主義の回復という種が振り撒かれていたのだという予測がつけられる。彼が暗殺を決意するのに影響を与えた多くの要因の一つに過ぎないが、激動する歴史的状況が、一人の人間の考えをどのように導いていったのかを知るには良い緒である。 米国式民主主義の盲目的追従を事大主義だと断定して、主体的立場で韓国式民主主義を作ろうと立ち上がった人が朴正煕だった。韓国的民主主義を理念として誕生した維新体制の守護神として任命された情報部長が、既に反対側の民主化勢力の論理に感化されていた。金載圭に、長期政権に対する国民の炎症を確信させたのは釜馬事態だった。 10月17日深夜、中央庁で召集された臨時国務会議で、釜山への非常戒厳令宣布が議決される最中、金載圭は夜間飛行で釜山現地に到着した。彼は夜間デモが激しかった光復洞南浦洞中央洞一帯を管轄する中部警察署を訪れた。デモ群集の中に置かれていた中部警察署で状況報告を受け、情報部釜山分室に戻ろうとしたが、デモ隊によって乗用車が警察署に近づく事ができなかった。金載圭は情報部要員達の護衛を受けながら、約20分歩いて、車が待機している光復洞に向かった。 闇に包まれた都市の至る所でデモ隊が気炎を上げていた。雄叫びと催涙弾の飛び交う音が聞こえ、中心部は廃墟のように閑散としていた。真っ暗な裏通りを歩きながら、金載圭は、「これでは駄目なんだ」と幾度となく呟いた。随行員には、「物理的に解決するのではなく、根本的な対策を練らなければならない」という意味に取れた。 金載圭はこの現場での体験を通じて、「この政権の命運が尽きた」という印象を受けたようだ。戦争やデモなどの現場で指揮者が抜けてしまうと、状況を過大評価する傾向があるが、金載圭も現場を目撃する事で、釜馬事態を実際よりも深刻に捉えたようであったし、「第二の4.19(※李承晩政権が倒れるきっかけとなった学生革命)が近づいている」と判断したようでもあった。彼は釜山から帰って来ると、18日には直ちに、青瓦台に出向いて大統領に報告を行なった。大統領と秘書室長、警護室長が食事をしている席で、「釜山事態は体制、政策、租税に対する不信や批判が積み重なった民乱で、全国の五大都市にも波及するでしょう」と伝えると、朴大統領はこのように言って怒ったという(金載圭の控訴理由補充書から)。 「釜山事態のような事がまた起こったら、今度は私が発砲命令を下す! 自由党時代は、崔仁奎や郭永周が発砲命令を下して処刑されたが、大統領であるこの私を誰が処刑できようか!」 横にいた車智Kは、「カンボジアでは300万人殺しても何ともなかったんだ」と加勢していたという。 金泳三議員職除名前日の10月3日、朴浚圭(パク・ジュンギュ)共和党議長代理、太完善(テ・ワンソン)維政会議長、金桂元(キム・ゲウォン)秘書室長、金載圭情報部長は、新羅ホテルの一室で会い、翌日の戦略を議論した。金桂元室長が口火を切った。 「今朝、ある大使館にも電話があったのだが、金泳三(キム・ヨンサム)総裁の除名を考え直すようにという話がありました。我々4人が今から閣下にお会いして、再考して下さるように建議しましょう」 他の者達も同意した。この時、車智K警護室長が現れた。彼は話を聞くと、酷く立腹した。 「今から閣下にお会いするところだが、閣下の御意思は絶対に除名支持です」 こうなると、彼らの青瓦台行きは放棄せざるを得なかった。 この日、金載圭は、金泳三のために最後の努力を試みた。南山(ナムサン)にある公館に金泳三総裁を極秘裏に招待し、約1時間に渡って懇請したようだった。 金泳三総裁が1987年、記者に話してくれた対話の要旨は以下のようなものだった。 「金載圭部長は、前日に大統領と長期間に渡って、私の除名問題について話したと言いながら、翌朝、自然に記者達と会って、ニューヨーク・タイムズの記事についての釈明をしてくれれば、これを名分に除名しないように努力してみようと言っていました。私は拒否しました。金部長は哀願するように説得してきました。彼は何度も、『そうしないと、私も金総裁も大統領も皆が不幸になります』と言いました」 金載圭は、野党や学生勢力に対して、無理強いをしないように努めた形跡が所々に表れている。彼は権力に対して盲目的に追従するタイプの人間ではなかった。彼が1979年に好んで書いた毛筆、「自由民主主義」「民主民權自由平等」「爲民主正道」「爲大義」「非理法權天」のような言葉も、彼の心理を窺わせるものである。 |
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